晴れた日は出かけよう

世界中にファンがいる大作家でもなく

締め切りに追われている商業作家でもないなら

書けないことを悩む必要なんて一つもない。

 

自費出版の詩集を出して

たくさんの売れ残りを抱えるなんて

自虐的な行為

とても理解出来ない。

 

例えば

詩を書くことより忙しい日々があるなら

詩を書けなくなったことを喜んだらいいと思う。

 

そこにたくさんの言葉が降っているはず。

 

もしも何もなさ過ぎて詩のネタがないなら

何も感受することの無い毎日を心配した方がいい。

 

言葉は

紙の上に降らせるのではなく 

今、隣にいる人に

明日、出会うまだ見ぬ人に

声と表情とを合わせて

降らせたい。

 

花だって犬だって猫だっていい。

直接降らせたい。

 

同じように誰かの言葉を浴びて暮らす。

 

花や犬や猫たちの

言葉に代わる何かに耳を澄ませたい。

 

生身の人間に

生身の自分を 

擦り合わせ

時に擦り切れ

時に傷く。

 

本当の理解も

真の喜びも

同じ場所にある。

 

紙に寄り添うのではなく

人に寄り添う。

 

自分の世界に閉じていくか

開いて行くか。

 

晴れた日は人に会いに出かけよう。

(最初「あいに」を「愛に」と変換した素晴らしきパソコン!)

 

じゃない?